新聞奨学生で進学するも、大学を中退。
いよいよ社会人1年生である。
新聞奨学生としての経歴は、果たしてプラスになるのか?
続・二〇世紀末頃の新聞奨学生事情。
につづく。
この記事でわかること
- 新聞奨学生の経歴は役に立つ?
- 自己破産したらどうなる?
- 苦労は買ってでもしたらいい
就職活動で事件発生
働いて実家の家計を支える!
などと豪語し、大学を中退したボク。
4年間の過酷な日々を思えば、1年くらい羽を伸ばしたい気分だ。
しかし、実家の家計は火の車。
残念ながらそんな余裕は無い。
一日も早く就職して収入を得る必要があった。
大学では電子工学科であったが、大学へ通う中で、ハードウェアよりもソフトウェアに興味があることに気づいた。
ソフトウェア開発の仕事を探してみると、どの求人も実務経験や資格が求められており、大学中退、未経験の肩書では非常に厳しい状況だった。
威勢よく中退して帰ってきたのに、なかなか就職できず、
食い扶持が増えただけ。
という悲惨な状況が3ヶ月も続いた。。
「何しに
帰ってきたんだろう」
みるみる精神的に滅入っていった。
無職の状態が、こんなにも精神的に追い込まれ、苦しいものだとは思いもしなかった。。
挙句、当たれば儲かる的な怪しいお仕事にも足を突っ込みかけるなど、大いに迷走もした。
そんな中、ようやく希望に近い仕事の面接にこぎつけることができた。
とあるソフトウェア開発業務におけるテスターのお仕事であった。
プログラマーのお仕事では無いが、とっかかりとしては申し分が無い。
しかし、
その面接で事件発生。
手元の資料に目を通した面接官が、想定外の一言を発した。
「この春、
大学を卒業されたんですね」
え"ー!? (心の声)
ちなみにこの求人は派遣のお仕事。
ボクの経歴は、派遣会社を通じて先方に伝わっているのだが、「中退」が「卒業」に置き換わって伝わっている。
軽く
学歴詐称だ。
当然ここは、「いいえ」と答えて、真実を語るべきだが・・・
そうすると、派遣会社が誤った報告をあげたことが明るみになる。
それはマズい!?
一瞬、派遣会社に忖度して、経歴を訂正することに躊躇いを覚えた。
しかし、忖度してウソのまま面接をやりすごしたならば、結局後でウソがばれて自分がヒドイ目に遭いそうなので、
「あ💦 中退です」
躊躇した割には、
割りと即座に訂正した。
やはり自分の身がカワイイ。
面接官は目を丸くして、手元の書類を再度確認した。
「あれ、卒業って書いてあるけど。。」
「あ、きっと、派遣会社の方で
間違えられたのかもしれません。。」
まさかのやり取りに、冷や汗をかいた。
こうなると、当然、訊かれるのが、
「なんで中退したの?」
まぁ、もともと想定していたのはこの問いである。
気を取り直して弁明、いや、正しい経歴を話した。
新聞奨学生として進学し、家庭の事情で退学したことをありのまま伝えた。
4年間、働きながら大学へ通った事は、割と好印象だったように思う。
そこからは、面接官とも話がはずみ、無事に面接を終える事ができた。
ほどなくして、採用の連絡を賜わる。
ひとまずは、家計を支える手筈が整った。
親が自己破産した
退学して3ヶ月。なんとか、仕事に就き収入を得られるようになった。
新聞奨学生の時よりも給料は上がったものの、大部分は実家の経済支援に消えていった。
しかし、この悲劇にはなかなか終わりが見えなかった。
両親の経済状況はその後も低迷を続け、とうとう父は入院を余儀なくされ、完全に働けなくなった。
それまでの父は、度重なる借金の取り立てにも、
「借りた金は必ず返す!
もう少し待ってくれ!」
と、バチバチ火花を散らしていた。
なんとか返済しようとする姿勢は、債務者として当然だ。
だが、一向に返済の目処が立たずに、頻繁に借金の取り立ての電話が鳴り続く状況というのは、
まさに地獄であった。
いつしか家族は心身ともに、疲弊の極みにあった。
ところが、入院して完全に働けなくなった父は遂に観念したのか、弁護士会の多重債務者の相談会が開催されることを聞きつけると、母に参加を命ずるのであった。
母が相談会に参加すると、自己破産への手続きが始まった。
すると、頻繁に鳴っていた借金の取り立ての電話が、ピタッと鳴らなくなった。
自己破産をする代償は大きいが、家族の心労がかなり軽減されたことは間違いない。
こうして、正式に自己破産の申請が通り、法的に、これまでの借金について、返済の義務は無くなった。
と同時に、両親は財産を全て失うことになった。
当然、マイホームも差し押さえられ、競売にかけられた。
程なくして買い手がつき、立ち退きを命ぜられた。
住んでいた家を追われるのは辛く切ないが、致し方がない。
とはいえ、引っ越すにもお金がかかる。
金が無いから自己破産したのに、なんとも理不尽な要求である。
祖父に祖母も含めた一家6人の引越しである。結構な額の引っ越し費用が必要である。
当然その時、そんな資金が
あるわけも無い。
このままだと真冬の北海道で住む家を失い、一家で路頭に迷うことになるのであった。
我が道を行く
実家の危機をどうしたものかと悩んでいる最中、仕事で海外出張の話が舞い込んだ。
またとないキャリアを積むチャンスである。
嬉々として参画するも、まさかの悲劇が待ち受けていた。
出張に同行する上司が最悪だった。
仕事について様々ダメ出ししてくるが、何がどうダメなのか、全く説明しないのである。
「あの、どこがダメなのでしょうか?」
…(無表情)
ガン無視。
指摘は口頭ではなく、冷たくメールで送られてくるのみ。
そもそも、そこまで仕事には問題は無く、単にその上司の好みにそぐわないだけである場合も多かった。
極めつけは全体メールに、
「こいつら使えねー」
と、仕事ができないことを、関係各位宛に晒し上げるのである。
こういうの、何ハラっていうんですかね?
約20年前、そんな○○ハラ的な言葉があったか、無かったかくらいの時代である。
部下は堪えるしかなかった。
そのうち、とうとう同僚のひとりが、
「俺、部署変えてもらうわ」
と離脱。
配置替えを申し出る同僚が続出した。
ボクも相当ヤられて部署替えを考えたが、それは海外プロジェクトからの離脱を意味する。
せっかくの貴重なチャンスを失うことになる。
コイツがこのプロジェクトにいるばっかりに、ボクらはチャンスを諦めるしかないのか!
本当にそれでいいのか!?
考えれば考えるほど納得がいかないのである。
いつしか新聞奨学生時代に培った反骨精神が燃え上がっていた。
部署を変える?
なんでボクが!?
つ ー か、
オ マ エ ガ
ド ケ ロ
憤怒の炎が、負けそうだった心を奮い立たせた。
「やられたらやりかえす、倍返しだ!」
(by 半沢直樹)
残念ながら、そんな痛快でドラマチックな展開にはならない。
地道に仕事で見返すしかない。
こうして、色々あったが、その上司の下、海外プロジェクトを完遂。
その後も幾多のプロジェクトに参加していくことになるが、次第にその上司の存在は気にならなくなり、気がつくと、本当に自分の目の前から居なくなっていた。
数年後、別の会社にプログラマーとして採用して頂くことができ、派遣の仕事を辞めることになった。
少し気は引けたが、例の上司にも、終了の挨拶に伺った。
すると、
「あの時は、
よく頑張ってくれました。
ありがとう。」
え!?なに!?
一瞬唖然としてしまった。
なぜなら、冷たく「あ、そう。オツカレサマ。」と言われるくらいのものかと思っていたのだ。
まさかの丁寧な謝辞に、時間が止まった。
「あの時」とは、海外プロジェクトのことだ。
当時のその上司からは、まったく想像もできない言葉であった。
嫌な上司問題をいつしか克服し、当初目的としていたプログラマーの仕事にも就くことができた。
そして、危うく冬の北海道で一家路頭に迷うところであった我が家も、海外出張の手当に助けれられ、危機を脱することができた。
目の前の嫌なことを手っ取り早く避けて通るのも1つの選択肢だが、そのために不本意な人生を歩むのが嫌なら、敢えて挑んでみるといい。
そこから得られるものは想像以上だ。
困難が困難ではなくなるという事は、自身が成長したからである。
自身が成長すれば、置かれた環境や状況も変化していくのが道理だ。
上司の最後の謝辞が、単なる社交辞令であったのだとしても、困難を避けずに我が道を貫いた結果、自分を取り巻く様々な状況が好転していったことは紛れもない事実であった。
ささやかではあるが、ここにひとつ、人生における「勝利」を実感することができた。
親の経済支援はいつまで?
さて、自己破産したからと言って、父が働けず、稼げないことには変わりがない。
当時20代半ばで派遣社員だったボクの稼ぎはたかが知れているが、それでも実家の大黒柱とならざるを得なかった。
なんとも、心細い大黒柱だ。
欲しいものも満足に買えない。
新聞奨学生時代に培った「小欲知足」の精神のおかげか、そんな生活にもさほど苦を感じなかったが、ふと、将来のことを考えると不安だった。
このままでは、フツーに考えて、
結婚して
家庭を作るなんて絶望的
であった。
しかし、その10年後、ボクは結婚し、二児のパパとなるのである。
人生、
わからないものである。
相変わらず生活はカツカツだが、親の経済支援からはついに解放されたのである。
もちろん、両親は今も健在である。
父の健康は回復し、周囲の方の助けもあり、両親は年金と簡単なアルバイトをして、経済的に自立できるようになった。
それまでの約10年以上もの間は、まるで出口の見えないトンネルのようだったが、ちゃんと出口があったのだ。
また、就職難などで卒業後の返済が難しいと言われていた日本育英会の奨学金も、無事完済することができた。
現状に囚われて「しょうがない」と諦めてしまうのか、現状はどうあれ「もっとこうなりたい」と挑むのかで、人生の方向性は大きく変わる。
新聞奨学生として過ごした日々は、未熟なボクにしっかりとした「芯」を使ってくれたように思う。
おかげで、どんな逆境にも腐らず、「もっとこうなりたい」と、ボク個人の問題はもとより、家族の問題まで乗り越えることができた。
「苦労は買ってでもしろ」という言葉があるが、
新聞奨学生に限らず、若いうちに苦労する機会に恵まれることは、むしろ幸運なことなのかもしれない。
新聞奨学生は、かけがえのない鍛えの青春であった。
2度とやりたくないけど。
おわり